ライフハック序説

秋織のブログ。読書感想文や思いついたこと、考えたことを書いていきます。

着物はもはや薄っぺらなイメージなんだろうか? もしくはJe suis 議員さん

 3ヵ月ぶりに更新します。文章を書くのはしんどい。なにしろ私は言語でなく直観で考えている節があって、それを「翻訳」するには気力を使います。大変だとおのずから遠ざかりますね。もっとも書くことに利得を見出してはいるので、また少しだけ何か記事をこしらえようと思います。

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時事ドットコム:着物でテロに抗議

議員さんが晴れ着を着てテロに抗議されていたそうです。

その賛否はともかく、どうして「晴れ着」なのか、そもそもどうして「着物」なのかが気になるところです。正直、こうした「『日本人』らしさ」に薄さを私は感じるのですが、それのどこが私にそう思わせるのか?

端的には「『日本人』らしさ」というのがありきたり、凡庸だからだと思います。ステレオタイプな日本像、「ゲイシャ! キモノ! ヤクザ! テンプラ!」には何の新しさもありません。キッチュで形だけです。

オリエタンリズムや時代小説といったものがそういった「日本人」像の元にあるように妄想しますが、ある面で面白いことには、ステレオタイプを、当の本人たちが受け入れていることです。この場合には議員さんたちです。

「和装振興議員連盟」の方々にかぎらず、たとえば最近さかんな「『ガイコクジン』から憧れられるニッポン」のなかのステレオタイプが『日本(人)の美』とされることの多さには驚きますが、それ以上に、それを素直に受け止める人のいることがすごい。私よりも賢くて立派な方ですらそこに陥ることがあるので、私にもそういったことが必ずあるように思います。反省します。

薄いイメージを着て喜ぶ議員さんたちの笑顔はよそおいに負けないくらい美しいですが、私を含む少なからざる人たちもそれくらい美しいのではないか、という疑問(半確信?)は前々からあります。

議員さんたちはありふれた人であって、晴れ着で抗議する議員さんたちの無神経さ、(よく言及される)喪服を着ない非常識さは確かにマズいですが、その根本で駆動しているのは平凡な無思考のように見えます。かなり多くの人が免れることのできないような日常的な無思考で、私も例外ではありません。こういうことを思うたびに一人で勝手に暗くなるので、まあ考えなければいいのですが…という風に無思考は侵入してくるので難しい。